第25回 総会・研究大会


【プログラム】

日 程:2023年6月25日(日)

開催校:日本大学 商学部

〒157-8570 東京都世田谷区砧5-2-1

開催方式:対面


10:00~12:25

研究発表(発表30分、質疑応答15分)

10:00~10:45

近代フランスにおける女性芸術家の活動と判例

 

―― 既婚女性芸術家の才能に対する司法の表現

 

北澤 裕佳(日本女子大学大学院博士課程)

司会:奥 香織(明治大学)

10:50~11:35

ディドロにおける感受性の問題と演劇観

 

―― 『俳優に関する逆説』を通して

 

横谷 瑛美(明治大学大学院修士課程修了)

司会:瀧田 寧(日本大学)

11:40~12:25

ハイデガーの「本来性」の危険性とその克服

 

中野 耕 司会:小山 英一(日本大学)

12:25~13:10

昼食

13:10~14:55

研究発表(発表30分、質疑応答15分)

13:10~13:55

犬と狼の狭間:О. マンデリシタームの狼詩篇をめぐって

 

澤 直哉(早稲田大学) 司会:関 未玲(立教大学)

14:00〜14:45

地域社会における富岡製糸場の位置づけと価値評価の変遷

 

—— 共同性と公共性の観点から

 

木下 征彦(日本大学) 司会:江口 善章(兵庫県立大学)

14:50~15:10

総会

15:15~17:00

特別講演

 

日本における保養の文化と思想

 

——― 「鍛錬」と「愛護」の振幅と変容 ——―

 

瀧澤 利行(茨城大学)

 

司会:高橋 裕子(天理大学)



【研究発表 要旨】

(司会:奥 香織)

近代フランスにおける女性芸術家の活動と判例 ―― 既婚女性芸術家の才能に対する司法の表現

北澤 裕佳(日本女子大学大学院博士課程)

本発表では19世紀フランスおける既婚の女性芸術家に対する司法の措置について検討する。当時の社会認識では女性には芸術的才能はないとした共通理解が存在しており、さらに民法において既婚女性は法的無能者として扱われた。従来の先行研究でも、このような家父長制的風土、排他的なアカデミーの教育制度といった男権主義的な社会構造に対する批判的な論調が主である。しかし、芸術家という特異な専門職に従事した女性に対して、司法が制限だけでなく、その活動に許可を与える場合もあった。女性に芸術的才能を認めない社会通念の中で、これら既存の民法や夫権に抵触することなく、既婚女性の芸術的才能やその活動を司法が認可するに際に提示されたのが、旧来の慣習法より続く婚資制による女子相続と著作権利の不動産的性格が一つあげられる。

実際、既婚の女性芸術家に関する判例を精査すると、多くの判決において芸術活動の中で生じた商業的契約は夫の許可がない場合、無効とされ女性の芸術的活動は夫権の管理下に置かれていたと言える。一方で、1868年のクレミュー夫妻などの係争では司法は夫権の絶対性を強調しながらも、夫人らに夫の許可を必要としない舞台出演の契約や執筆活動を許可している。さらに1855年に提示された基本原則では既婚女性の芸術的才能を明確に“婚資(dot)”と表現しており、これにより既存の夫権を侵すことなく、女性の芸術活動による創作物とそれらの活動で得た収入の独立性を一定程度、容認したと考えられる。



(司会:瀧田 寧)

ディドロにおける感受性の問題と演劇観 ―― 『俳優に関する逆説』を通して

横谷 瑛美(明治大学大学院修士課程修了)

演劇における俳優の演技を巡る問題を取り上げた『俳優に関する逆説』(Paradoxe sur le comédien、以下『逆説』)において、ディドロは優れた演技に俳優の「感受性 sensibilité」は不要であると論じる。晩年に執筆された本作は、俳優論・演技論の観点からは、主として俳優の心理を扱う点、すなわち感受性の有無という主張に注目して論じられることが多い。しかしながらこの著作でなされる議論は複雑で多岐にわたるものであり、俳優の演技にsensibilitéは不要であるという主張によって『逆説』における感受性を巡る議論を要約することはできない。むしろディドロは、sensibilitéという概念に彼独自のニュアンスを持たせて用いることで、外部とは自立した模倣芸術でありながら観客を感動させ、道徳的な効果を与える芝居という、演劇における彼の理想を展開することを可能にしている。

本発表では、18世紀当初のsensibilitéの一般的な意味を明らかにしたうえで、『逆説』における俳優の演技とその効果についての議論がこの概念を軸にどのように展開されているのかを考察する。sensibilitéを軸に『逆説』を分析することで、演劇を巡るディドロの思索におけるこの概念の重要性を明らかにするとともに、美学的・道徳的側面の双方からディドロの演劇観を読み解く。



(司会:小山 英一)

ハイデガーの「本来性」の危険性とその克服

中野 耕

ハイデガーは現存在の「本来性」と民族の「歴史性」を紐づけることで、民族の「運命」にしたがうことが現存在にとって本来的であると主張した。それは、個人を主体とせず、共同体を主体とする考え方である。

近代国民国家に生きる我々のアイデンティティは、民族や国家という概念と分かちがたく結びついている。それは、自分は何者であるか、という実存への問いへの回答をそれらの概念が与えてくれるからである。民族や国家は実体に基づいた概念であるがゆえに、相対的なものであるにもかかわらず絶対的な価値を付与されやすい。現代は神無き時代である。ハイデガーの「本来性」は神学的に言えば偶像崇拝の危険性である。

本論の目的は、ハイデガーの「本来性」のもつ危険性を明らかにすることである。

本論では、先行するハイデガーの本来性批判の代表的なものとして、アドルノの『本来性という隠語』を取り上げる。『本来性という隠語』におけるアドルノの本来性批判は理性的・論理的な批判であり妥当性がある。しかし、そういった理性的な批判では、不安に揺れる現代人がハイデガー的な「本来性」を求めてしまうのを止めるには至らないのではないか、というのが私の作業仮説である。その仮説にもとづき、本論ではハイデガーと同時代に活躍したブルトマンの神学を用いてハイデガーの「本来性」批判を試みたい。

ハイデガーは、民族や共同体の「歴史性」から生じる使命に準じることが「本来的」で価値があると主張する。ブルトマンはこの主張を否定する。ブルトマンにとって、民族や歴史は「創造の秩序」に則して理解されて初めて意味を有する。民族や歴史が、神を離れて語られるということは、国家が神の言葉による批判から離れることを意味する。神の言葉による批判とは、国家の行為が、聖書の中で示されている神の言葉に適合しているかどうかという尺度で行う批判である。

本論でブルトマンとハイデガーの「本来性」の差異を確認し、ブルトマン神学の基礎となるキリスト教の利他的な愛の実践が、相対的なハイデガーの「本来性」に対抗する手段であることを示したい。



(司会:関 未玲)

犬と狼の狭間:О. マンデリシタームの狼詩篇をめぐって

澤 直哉(早稲田大学)

本発表の目的は、オーシプ・マンデリシタームの1931年の詩篇「来るべき世々の轟く果敢さのために…」(通称「狼詩篇」)に、国家主権者スターリンと大衆暴力に抗する詩人の闘争の現実を読み取ることである。

狼詩篇は、主権者に煽動された「狩狼犬=大衆」に「狼」として狩り立てられる「人間=詩人」の嘆きを込めた名篇とされてきた。だがこの詩篇を芸術家の悲劇とのみ解しては、詩人の発話行為の具体を単純化・神話化しかねない。

本発表では、すくなくとも完成稿においては詩人が自身を「人間」と指し示してはおらず、「狼でない」としか言明していないことを手がかりに、狩る者/狩られる者、あるいは人間/獣という、古来より行なわれてきた分断の構造に着目する。もとより差異の体系でしかない言語を自身のメディウムとする詩人は、圧政者と時代のみならず、言語の、すなわち自身の根源的な暴力とも対峙せざるを得ないはずだからである。

危機の時代にあってみずからを安易に「人間」と称することは、「獣=敵」の措定による暴力の体制への同意になりかねない。この困難との戦いを読み取ることを通して、今日にも通ずる言語の政治学の根本問題を照射したい。



(司会:江口 善章)

地域社会における富岡製糸場の位置づけと価値評価の変遷
—— 共同性と公共性の観点から

木下 征彦(日本大学)

日本の近代産業発祥の地として広く知られる富岡製糸場は、2014年6月に世界文化遺産に登録された。いまや富岡市のシンボルであり、まちづくりを考える上で欠かすことのできない地域資源として位置づけられている。

しかし、1987年まで私企業の工場として稼働していた富岡製糸場は、生活空間としての地域社会と一体化したものでも、幅広く地域に開かれたものでもなかった。そのため、長い間、富岡市の地域社会における製糸場は、「身近すぎてその価値がわからない」ものであり、それを文化財や地域資源として保存・活用しようという動きは、ごく限られていた。そうした状況から、どのようにして富岡製糸場は世界遺産となり、「市民の誇り」となりえたのか。

本報告では、富岡市の地域社会において「近くて遠い存在」だった富岡製糸場が文化財・地域資源として位置づけられ、世界遺産登録を経て富岡市のシンボルとして評価されるに至った過程を記述・整理する。史資料や聞き取り調査のデータにもとづき、富岡製糸場と地域社会との関係性を長期的に捉え、それらを共同性と公共性の観点から読み解き、分析する。



【特別講演】

日本における保養の文化と思想 —— 「鍛錬」と「愛護」の振幅と変容 ——

瀧澤 利行(茨城大学)

保養の概念は、いわゆる保健・衛生概念としての使用は「養生」とほぼ同義であり、これ以外の使用は確認しがたい。周知のように、その後、「保養」の概念は、病弱児の保護や結核、傷痍軍人の療養・社会復帰の概念としてもちいられ、戦後はレジャーの一環としてのとらえ方が主流になっている。明治20年代には早くもいくつかの文献で養生とは異なる意味で「保養」の概念が使用されている。この「保養」概念の使われ方には、興味深い特徴がある。心身の摂生(すなわち養生)としての意味から、休養・療養という生活様式の変更を含む意味へ、そしてそこに楽しみや慰安を含む意味へと転化していく。

中国において「保養」の概念が成立したとみられる時期の内包は、いわゆる保健・衛生概念としての使用が、動物や幼少者など成人した人々よりは弱いとみなされる者を扶養し生育させることとして理解されていた。その後、日本に「保養」概念が到来した時期は、平安前期以降における養生思想の日本への移入とともに類縁の概念として、徐々に浸透していったとみられる。後述のように織豊末期から近世後期までの養生論では、「保養」はほぼ養生と同義の概念として用いられていた。その後、近代にいたると明治20年代には早くもいくつかの文献で養生とは異なる意味で「保養」の概念が使用されるようになり、病弱児の保護や結核、ハンセン病、精神疾患患者の療養を表わす概念として、また、傷痍軍人の療養・社会復帰の概念として用いられるようになった。そして、戦後は観光政策とも連動しながら温泉などの観光資源と関係づけられレジャーの一環としてのとらえ方が主流になっている。

この多義的な用法の背景にある「保養」の思想的文脈をどのように読解するべきか。養い育てる、養生するといった生成論的概念から現代的な解釈としての慰安や積極的休養を意味する概念への転成の過程において、病や障害の療養と生活への復帰という生産的身体への指向性が胚胎する機序をみることができる。これを身体の私事性から社会性への転轍と解釈すると、社会が病や障害をどのような現象としてとらえようとしたか、少なくとも人々にとらえるように仕向けたかを見いだすことができるのではあるまいか。

このような観点から、保養という概念とそこにまつわる思想的集塊を探索してみたい。



講演者紹介:
氏名:瀧澤 利行
所属:国立大学法人茨城大学教育学部教授,副学部長、茨城大学評議員
学位:医学博士(大阪大学)、教育学博士(東京大学)
専攻分野:医史学、健康思想史、公衆衛生学、衛生学

【略歴】
1992年 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了(教育学博士)
1996年 茨城大学教育学部教育保健教室公衆衛生学助教授
1998年 大阪大学大学院医学系研究科公衆衛生学博士課程修了(医学博士)
2002年 茨城大学教育学部教育保健教室公衆衛生学教授
2004年 放送大学客員教授
2018年 国立大学法人茨城大学評議員
2022年 放送大学茨城学習センター客員教授
現在に至る

【主著】
『近代日本健康思想の成立』1994年 大空社
『健康文化論』1998年 大修館書店
『養生の楽しみ』2001年 大修館書店
『養生論の思想』2003年 世織書房
「養生論とその宗教的世界」島薗進・高埜利彦・林淳・若尾政希編『シリーズ日本人と宗教 3 生と死』2015年 春秋社








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